2020年4月23日木曜日

藤の蔓

久しぶりにお久しぶりです。
育児ブログを作ってみたりnoteを開設してみたりtwitterで呟いたりしていますが、心にうつりゆくよしなし事をそこはかとなく書きつくる場所はやっぱりここかなと戻ってきました。outputの場の使い道が定まらなくて、中途半端なノートをたくさん持ち歩くタイプです。スケジュール、ゲームのメモ、気に入った文のメモノート、仕事用手帳etc...


毎朝通勤で山ぎわの道を通るんですが、最近は藤がきれいに咲いています。
夫の実家の近くには小さいけれど見事な藤棚があって、5月の連休に帰省するといつもたくさんの花を見上げられます。そういう作られた藤の美しさもいいけど、個人的には山の木々に絡みついて咲く藤が好きだなあと思うんです。

鉄の藤棚に絡みついて、棚の形にぴったり合うように自分の蔓を変形させ鈴なりに花を咲かせる姿はきれいだけれど痛々しくて人間の我の強さを感じる。山の木々に絡みつく姿は藤そのものが力強く、絡みつかれて枯れゆく運命にある木を哀れに思うと同時に土台の木が倒れても次なる木に向かって蔓を伸ばしまた繁茂する藤の生命力の強さに畏れすら抱く。そういう「もののあはれ」っていうの?好きなんですよね。昔の人が藤を高貴な植物と考えたのも納得。

今日高速を走りながら、「ねえ、藤ってね、自分じゃ自分の幹を支えられなくて、他の木に絡みついて高く成長するんだよ。それでしまいには土台にした木から光を奪って蔓で締め上げて倒してしまうんだって」というセリフが出てくる小説があったら・・・と妄想していました。

このセリフを誰が誰に言うかな。
藤のような魔性に友人を奪われた人が、恋人に向かって諦めたように語るかな。他者に寄生するように生きる主人公が自虐的に話すかな。
私は妄想力が弱くて小説家にはなれないな、と思うんだけど、小説家はこういうところから妄想を発展させてお話を作るのかな。
っていうかこういうセリフすでにありそうだよね。絶対ある。どこかにありません?

昔親だったか誰かに、「藤は他の木に絡みついて成長するんだけど、蔓が太く成長するからしまいには土台の木を枯らしてしまって、自分も一緒に共倒れになって枯れてしまう」と聞いてなんて刹那的な植物なんだ、と思った記憶があるのですが、どうやら違うんですね。普段から隣の木にも枝を伸ばしていたり、土台とともに倒れても、根元から延ばしたほふく枝が芽を出して別の木に巻きついたり、自分だけは生き残る戦略を持っているようです。美しく、なんともしたたかな植物なんだな。