2012年1月6日金曜日

思い出のうた

松山のYH、1日の夜は毎年恒例新年パーティー。
食事がバイキング形式になって、ドリンク飲み放題。
もちろんビールです。生です。

あんまり食べて重くなると帰りの燃費が悪くなるので、控えめに・・・笑
でもしっかり食べました。飲みました。
そして母親の子供の扱いのうまさに驚愕。


パーティーのあとは、毎年恒例くろねこ一家の音楽会。
母ピアノ弾き、あたしピアノ弾き、妹バイオリン弾き歌うたい、父ほら吹き
のくろねこ一家。
かつては近くにあったうたごえ喫茶によく出入りしていたこともあり、旅先ではよくミニ歌声をやります。中に妹のバイオリンも織り交ぜつつ。
あたしもかつてはピアノ弾いたりしてたけど、もうずいぶんとピアノから離れてしまったので、今は妹の伴奏を1曲と、母の譜めくリストと、あとは歌声要員です。

妹の伴奏は、もう中学くらいからずーっと弾いている、ザイツの協奏曲第2番3楽章。
年に1,2度しか弾かないけど、すっかり暗譜してしまいました。
このままいくと死ぬまで忘れないかもしれん。


うたごえは、もちろん昭和歌謡中心。伴奏母。
かつて若者としてYHを利用していた人々が、いまのYHの利用者の中心なので(悲しいことに)、これでOKなのです。
ひとり小学生もお母さんと一緒に聞いていてくれたけど、たぶん知ってる歌ほとんどなかったよね・・・ごめんね。
うたごえ喫茶で育ったあたしもわかんない曲あったし。

遠い世界へ 青い山脈 憧れのハワイ航路 東京ブギウギ 上を向いて歩こう etc...
小学生がわかったのはきっと 翼をください だけだったね。
ちなみにあたしが昔よく歌ってたのは、ケ・サラ です。 なるようになるさ、って歌です。
「僕たちの人生は 涙とギター道連れにして 歩いて行くようなもんさ」ってうたう小学生・・・。
ほかにトロイカとかカチューシャとか見上げてごらん夜の星をとか、あなたが夜明けを告げる子供たちとか歌ってたなあ。
なつかしいひと時でした。

2日に祖父の家に泊って、3日は長野まで移動。


中学の合唱部の同窓会へ。
中学はテニス部でしたが、最後だけ合唱部に入ってました。
ちなみに高校は弓道部ですが、1、2年の時はずっと合唱部の伴奏をさせてもらってて、関東甲信越大会まではいきました。あれ、いったよね?
合唱とのかかわりはけっこう深いのです。

懐かしいメンバーにあって、2次会のカラオケで合唱曲なんかも歌ったおかげで、現在合唱曲の波がやってきています。
過去に歌った歌とか、Youtubeで検索して聞いてみたりして。

ちなみにあたし、小学校から高校まで万年伴奏係だったので、ステージで歌った経験はほとんどありません。学年合唱で他のクラスの子がひいたときとか、アカペラだったときとかくらい。
小学校の全校集会のときは、クラスの他の子が弾いたこともあったかな。


いまだに弾ける
「時の旅人」
 小学校の音楽界で、クラスで歌いました。
ときどき歌う方もやったから、歌って伴奏もできる数少ない曲かも。


中学の時の課題曲
「白いページ」
 


自由曲
組曲 風紋より「あなたは風」

自由曲
組曲 わがふるき日のうたより「鐘鳴りぬ」
 歌詞が古くて格好良くてすき。


高校の課題曲
「新しい人」に
ちょっとこわい歌詞だけど大好きでした。 


2年の時の自由曲
ピアノのための無窮連祷より「生きる」

めちゃくちゃピアノ難しかった・・・
合唱曲なのに、「ピアノのための」ってとこがまずおかしい。

ほかにも山ほどあるけど、こうやって聞いてるとやっぱ合唱もいいなあって思います。すこしでもやれてよかったな。


合唱の同窓会の後は中学の同級生と飲みました。
関西に行って、関西弁に染まる長野人もいるということがわかりました。
あたしもすこしは西の言葉うつったけど、なかなかネイティブのようには話せません。酔っぱらうとすこし出ます。笑 地元に帰るとひっこみます。
長ーくこっちに住めばあたしも、きーとかちゅうとか言うようになるのでしょうか。

長野弁て、いまいちわからなかったんだけど、基本標準語だと思うんだけど、やっぱり「山っぽい」ってこともはっきりしました。
なんかこう、「さー」が多くて、いなかくさいというか山から降りてきました、って感じというか。ずーずー弁とかじゃないのよ、ちっちゃい「つ」が多いというか。
ま、若い子はそれほどでもありませんけどね。

余談ですが長野県では、給食を食べ終わるとみんなで
「いただきました」
と手を合わせます。
「いただきます」に素直に対応していて、とてもいいと思います。

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